LOGIN裏口の鍵は、開いていた。
それだけで、嫌な汗が背中を伝った。
白瀬こはるは、スマホを置いて消えていた。
スマホを置いて、だ。
昨日、雨の中で倒れていた時ですら離さなかったスマホを、彼女は置いていった。
その事実が、何より怖かった。
「こはる!」
夜の商店街に、俺の声が響いた。
午前二時過ぎ。
こもれび商店街は、昼間以上に死んだように静かだった。
閉じたシャッター。 消えた看板。 街灯に照らされた濡れたアスファルト。 どこかの室外機が低く唸っている。さっきまで、こはるはソファで眠っていた。
起きたらまだここにいますか、と聞いた。
俺は、いると答えた。約束した。
第37話 守られるだけは、もう嫌です 守られるだけは、もう嫌です。 こはるがそう言った翌朝、喫茶こもれびの空気は、昨日より少しだけ違っていた。 劇的に明るくなったわけではない。 ネットの火が消えたわけでもない。 神谷レンの「責任から逃げるな」は、まだどこかで伸びている。 逆ギレ切り抜きも消えていない。 月乃こはね疑惑も、クロユウ再燃も、商店街特定の危うさも、全部まだそこにある。 何も終わっていない。 けれど、こはるが自分の声で言った一言は、こもれびの床に小さな杭みたいに刺さっていた。 守られるだけは、もう嫌です。 それは危ない言葉でもあった。 守られるだけが嫌だから、表へ出る。 守られるだけが嫌だから、自分を晒す。 守られるだけが嫌だから、火の中へ歩く。 そうなれば、また神谷レンの思う壺だ。 だが同時に、その言葉をなかったことにもできなかった。 守る側の都合で、こはるをずっと奥のソファに座らせておくことはできない。 それでは、こもれびは彼女の居場所ではなくなる。 保管場所になってしまう。 人間は保管されるものではない。 ……と、朝から妙に真面目なことを考えていたら、コーヒーを淹れる手元が狂った。「あっ」 粉の量を間違えた。 多い。 かなり多い。 今日のブレンドは、たぶん濃すぎる。 源三さんが、入口近くの席から新聞越しに言った。「黒瀬」「はい」「今、豆を責任の量で入れたな」「何ですか、その嫌な単位」「顔に出とる」
第36話 責任から逃げるな 責任から逃げるな。 神谷レンのその言葉は、朝になっても消えなかった。 夜の間に何度も誰かに引用され、短くされ、少しずつ別の形に変わっていた。【責任から逃げるなって正論】【クロユウは昔も逃げたよね】【月乃こはね本人なら活動者として説明責任あるでしょ】【昔の思い出で美化するな】【でもレンが言うと圧が強い】【責任って誰の何の責任?】【逃げて生き延びることもあるだろ】【白湯飲め】 最後の一つだけ、少し場違いで、少し救いだった。 だが、救いだけを拾っていられるほど、俺の胃は丈夫ではない。 喫茶こもれびのカウンターで、俺はスマホ避難箱に入れるべきスマホを手に持ったまま固まっていた。 駄目だと分かっている。 火のついたものを素手で持つな。 源三さんの言葉が頭をよぎる。 だが、その火は俺の名前を燃やしている。 クロユウ。 逃げた男。 説明しなかった男。 責任から逃げた男。 昔の俺は、確かに逃げた。 いや、逃げるしかなかった。 けれど、逃げたこと自体は消えない。 俺が配信をやめた後、残された視聴者もいた。 説明が足りないまま、嫌な気持ちを抱えた人もいた。 俺の荒い言葉で傷ついた人もいただろう。 全部が捏造だったわけじゃない。 全部が切り抜きだったわけでもない。 俺は、被害者だった。 でも、きれいな被害者ではなかった。 だから、「責任から逃げるな」は刺さる。 深く。 嫌になるくらい、正確に。「悠斗兄」
第35話 古い夜更かしの正体 知りたい、と思った。 それは、かなり危ない気持ちだった。 古い夜更かし。 その名前を見た瞬間、俺の中の何かが、音もなく身を乗り出した。 誰だ。 あの時の誰だ。 クロユウの夜を覚えていると言った人。 切り抜きだけが全部じゃなかったと、今さらでも言葉を送ってくれた人。 昨日は、こはるの投稿にこう書いた。【説明できない時、黙っていてもいい。でも、壊れない場所にいてください】 その一文は、こもれびの空気を少し変えた。 説明しろ。 逃げるな。 守るために出てこい。 ちゃんと話せ。 そんな言葉ばかりが飛んでくる中で、その人だけが「黙っていてもいい」と言った。 黙っていてもいい。 それは、今のこはるにも、昔の俺にも、かなり必要な言葉だった。 だから知りたくなる。 あの人は誰なのか。 昔のリスナーなのか。 俺の炎上の時に黙っていた人なのか。 DMをくれた本人なのか。 違う人なのか。 どの配信を覚えているのか。 どの夜にいたのか。 俺のどの言葉が届いていたのか。 知りたい。 感謝したい。 謝りたい。 確かめたい。 それらは全部、綺麗な気持ちに見える。 でも、結局は探したいということでもある。 名前ではなく、言葉を聞いてください。 俺たちは、そう言った。 なら、俺が最初に守らなければいけない。 そのはずなのに、指は勝手にプロフィールを開きそうになっていた。「悠斗兄
第34話 説明できない夜があります 朝、喫茶こもれびの窓は少し曇っていた。 雨が降っているわけではない。 外の空は薄く白く、商店街のアーケードには昨日の湿気だけが残っている。 八百屋の前では、親父さんが段ボールを潰している音がした。 日向弁当の方からは油の匂い。 ゲームセンターのシャッターはまだ半分閉まっていて、模型店のガラスケースには、昨日と同じロボットが同じ角度で立っている。 何も変わっていない。 そう思いたかった。 けれど、こもれびのカウンターには木箱がある。 スマホ避難箱。 中には、こはるのスマホと、俺のスマホが入っている。 俺のスマホまで入れる必要はない、と言ったら、芽衣が「一番必要」と即答した。 かなり不本意だ。 だが否定しきれない自分がいる。 木箱の中で、たまにスマホが震える。 こつん、と木に当たる音がする。 通知音を切っていても、震動までは消せない。 火のついたものを素手で持つな。 源三さんの言葉を思い出す。 スマホは火だ。 便利で、暖かくて、夜を照らしてくれる時もある。 でも、近づけすぎると、普通に焼ける。 俺はカウンターで白湯を飲んでいた。 コーヒーではない。 今日は、朝からコーヒーを淹れる気にならなかった。 まずいコーヒーを淹れるには、最低限の体力がいる。 それは喫茶店としてどうなのかと思うが、事実だから仕方ない。 窓際の席で、こはるがメモ帳を見ている。 昨日の夜に書いた文章。『説明できない夜があります。 言いたくないからではなく、まだ言葉にすると壊れてしまうからです。
第33話 ちゃんと説明しなさい ちゃんと説明しなさい。 その言葉は、白瀬こはるのスマホの中にあるはずだった。 母親から届いたメッセージ。 通知画面に表示された数行。 指で消せば見えなくなる文字。 それなのに、喫茶こもれびの空気は、その言葉でいっぱいになっていた。 カウンターの内側。 窓際の席。 白湯のカップの縁。 食べかけの卵焼き。 源三さんが持ってきた将棋盤の上。 どこに目をやっても、そこにある。 ちゃんと説明しなさい。 ちゃんと、とは何なのか。 全部話すことか。 すぐ話すことか。 泣かずに話すことか。 相手が納得するまで話すことか。 相手が欲しがる言葉を、相手が欲しがる順番で並べることか。 俺には、分からない。 分からないが、その言葉が人を追い詰めることだけは、嫌というほど知っている。 昼過ぎのこもれびは、営業中なのに妙に静かだった。 客はいない。 商店街そのものが、昨日から少し息を潜めている。 黒い車。 切り抜き動画。 神谷レンのコメント。 こはるの母親からの連絡。 一つ一つは別々の出来事なのに、全部が同じ手で喉を押さえてくる。 俺はカウンターで記録表を開いていた。 真柴さんに言われた通り、淡々と記録する。 投稿日時。 動画タイトル。 URL。 スクリーンショット保存済み。 神谷レンのコメント確認。 母親からの連絡。 こはる本人による返信一回。 以後、直接返信停止。事務所対応予定。 文字にすると、冷たい。 こはるが
第32話 誰かを守るため、という言葉 誰かを守るため。 神谷レンのその言葉は、朝からずっと喫茶こもれびの中に残っていた。 音ではない。 匂いでもない。 けれど、どこにいても目に入る。 カウンターの端。 白湯のカップの横。 将棋盤の歩の上。 こはるの膝に置かれたホワイトボードの余白。 芽衣が持ってきた卵焼きの黄色い断面にまで、その言葉が染みている気がした。 誰かを守るため。 綺麗な言葉だ。 綺麗すぎて、触ると手が切れる。 守るためなら、話すべきだ。 守るためなら、説明すべきだ。 守るためなら、逃げてはいけない。 守るためなら、傷ついても仕方ない。 そうやって、守る側の人間は、いつの間にか逃げ道を失う。 しかも厄介なのは、その言葉を聞いた本人まで、自分で自分の背中を押してしまうことだ。 守らなきゃ。 私が出なきゃ。 俺が話さなきゃ。 そう思ってしまう。 善意に見える言葉ほど、人を縛るのが上手い。 俺はカウンターの中で、真柴さんに言われた通り記録をつけていた。 日時。 投稿。 URL。 内容。 こちらの対応。 地味だ。 ものすごく地味だ。 怒りで手が震えている時に、投稿URLをコピーして、スクリーンショットを保存し、時刻をメモする作業ほど、気持ちと噛み合わないものはない。 だが、真柴さんは言った。『感情的な反論ではなく、事実の積み上げが必要になります』 正しい。 正しいが、腹は立つ。 人間は







